はじまり
 タヒチアンパール=黒蝶真珠が世界の歴史の中に登場するは大航海時代といわれた15世紀スペインのH・コルテス(1458-1547)がメキシコを征服した時に今のバハカルフォルニア半島で黒蝶真珠を発見しヨーロッパに持ち帰ったことからはじまります。同時期コロンブスに代表される探検者達がヴェネズエラやパナマ等の海で黒蝶真珠を発見し欧州に持ち帰り、アメリカ大陸の貴重な宝石のひとつとして注目を集めるようになりました。当時の真珠はすべて自然の偶然によって生まれた天然真珠で非常に高価で貴重なものでした。通常黒蝶貝から天然の黒蝶真珠が採れる割り合いは1万5千貝から2万貝に一つあるかないかという確率といわれていました。南アメリカの黒蝶真珠は同地で金や銀鉱脈が発見されるまでヨーロッパに渡る産物として主力商品のひとつとされていました。アメリカ大陸の黒蝶貝は1940年代に突然の大量斃死をおこし壊滅状態になるまでおよそ3,000トン以上が採取されたといわれています。
 その後18世紀後半クック船長(1728-1779)らによって南太平洋の島々が続々と発見されます。同地には主に洋服やシャツのボタンの材料に使用される黒蝶貝が大量に棲息することがわかりました。以後南太平洋の黒蝶貝はボタン素材として大量に採取されヨーロッパに運ばれるようになりました。
 20世紀後半洋服のボタンがプラスチックなどで作られるようになると黒蝶貝の需要は急速に落ち込み産地では他の用途が模索されるようになりました。真珠の養殖も19世紀後半から試みられてはいましたが現在のようなラウンド系真珠の養殖は成功しませんでした。真珠を産み出す母貝も自然採取に頼っており、棲息域が広く大量に採ることができないため計画的な生産は難しい情勢にありました。そのため黒蝶真珠は市場に出る数も少なく、ごく一部の限られた人々にしか知られていませんでした。こうしたことから黒蝶真珠は永い間その色合い、輝きと貴重性も相まって神秘の真珠といわれていました。

タヒチの採苗技術の確立、養殖の成功により計画生産が可能に
 黒蝶真珠の母貝である黒蝶貝は、亜種も含めると世界中の亜熱帯性の気候の海に棲息していますが、品質の良い真珠を産み出すことのできる良質な貝はタヒチを中心とするポリネシアの海に多く棲息しています。
 真珠の養殖には安定的な母貝の確保が課題となります。そのためには稚貝を大量に採取できる採苗技術の確立が必須状件ですがなかなか成功しませんでした。1980年代後半アコヤ真珠や南洋真珠の養殖で実績のあった日本の技術支援もあってタヒチで黒蝶稚貝の自然採苗に成功し、ラウンド系の真珠の養殖もできるようになりました。これら一連の技術の進歩により黒蝶真珠が一般市場にも出るようになりました。今では世界の黒蝶真珠の95%以上がタヒチで産み出されています。タヒチから輸出される黒蝶真珠は仏領ポリネシア政府の振興策もありTahitian Cultured Pearl(タヒチアンパール=タヒチ養殖真珠)と呼ばれるようになりました。

歴史上の有名な黒蝶真珠
 歴史の中で特に有名な黒蝶真珠は16世紀にヴェネズエラで発見されスペインのフィリッペII 世に献上されたペアシェイプで鳩の卵程の大きさがあるとされる"ペリグリナ真珠"があります。ペリグリナ真珠は長い間スペイン王室に保有されますが、歴史の主役がスペインから英国へと移る中、ペリグリナ真珠も英国メアリ−I 世女王へ、フランスの隆盛に伴いナポレオンIII世へと権力者の手から手へと移っていきます。そして現代へ、銀幕の女王として映画界に君臨したエリザベス・テーラーへと引き継がれています。
 このぺリグリナ真珠の他、ロシアのエカテリーナ女帝が所有していた最大3.9グラムもある大粒真珠を30個集めて作った黒蝶真珠のネックレス、黒蝶真珠をセンターピースにしたナポレオンIII世のアズラ王冠や黒蝶真珠ネックレスなどが有名です。


苦難の道・黒蝶真珠の養殖の歴史

1884(明治17年)
タヒチ島でブーション・ブラドレイ氏が黒蝶貝を使い半円真珠の養殖を試みるが失敗に終わる

1910(明治43年)
中村十作氏が奄美大島の計呂麻(加計呂麻)水道にある油井小島でマべ貝、黒蝶貝を使用した真珠養殖に着手する

1914(大正3年)
御木本真珠会社が黒蝶貝による養殖を計画、石垣島の名蔵湾の中美崎浜と観音崎で黒蝶真珠の養殖を始めた。
最初は黒蝶半円真珠の養殖からスタート、事務所は石垣島登野城6番地に置いた。石垣島の前記養殖場は、台風被害のため同島の屋良部崎へ移動、ここも後に台風被害のために移動。
同年予十水産(株)小西左金吾社長は藤田昌世氏を中心にして高知県宿毛湾内の丸島に試験養殖場を開設、材料貝としてアコヤ貝と黒蝶貝(201個)を真円用に採取する

1916(大正5年)
藤田輔世氏がオフィリピンミンダナオ島サンボアンガにおいて黒蝶貝、白蝶貝を母貝とした真珠養殖に着手、同地で3年間施術を行い事業化の目処をつけた。

1921(大正10年)
御木本真珠会社カロリン諸島パラオ島コロール周辺に漁業権を取得。
藤田輔世氏がインドネシアセレベス島ブートンで養殖を開始する

1922-23
御木本真珠会社パラオ島に黒蝶真珠の養殖場を開設

1925(大正14年)
御木本真珠会社は前期石垣島屋良部崎の養殖場を川平湾に移動。ここ1ケ所に養殖場を集中、黒蝶半円真珠を養殖する。こうした中1930年(昭和5年)頃より黒蝶真珠の真円養殖研究に本格的に着手したようである。

1927(昭和2年)
藤田輔世氏三菱商事の援助によりブートン島で白蝶真珠の真円養殖に成功する。

1930(昭和5年)
同年御木本本社に寄せられた報告によると(大正15-昭和2年に至る挿核)14,000個から2.2貫の浜揚げがあったと報告されているが、斃死が多いことも報告されている。例えば翌年挿核した貝の経過報告によると1931年5月18日-10月22日施術貝数19,205個斃死貝数1931年3,060個、1932年5,919個1933年不明、1934年22,08個、1935年1,852個の斃死が記録されている。しかし昭和6年に直径10ミリの真円真珠の浜揚げがあった記録も残されている。このように黒蝶真円真珠の養殖に成功したが、量も少なく品質の問題もあり商業ベースに乗るまでには至らなかった。

1940(昭和15年)
戦争の危機のため御木本、川平湾、パラオ島の養殖場閉鎖、その他ブートン島、コロール島等で行っていた白蝶真珠の養殖場も同年から翌年にかけて閉鎖引き揚げ。

1949(昭和24年--60年)
鹿児島県下で黒蝶半円真珠の養殖試験が再開され、最盛期の昭和29年には5万貝の施術が行われたといわれたが天然黒蝶貝の不足、稚貝採苗の困難、貝の斃死があり殆ど中止。

1951(昭和26年)
占領下の沖縄宮古島長水地先で最初に黒蝶真珠の養殖が再開され、その後計9ケ所で養殖が開始された。しかしその後12年間で8社が事業を閉鎖し川平湾の1社だけが操業を続けている。

1954(昭和29年)
日本のマーケットに黒蝶真珠登場。その生産は横ばいだったが1970(昭和45年)1630個の良質黒蝶真珠が浜揚げされた。

1961(昭和36年)
フレンチポリネシア政府水産庁のジーン・ドーマー博士の招聘により日宝真珠(株)の室井忠六氏がヒクエル島で黒蝶貝に最初の施術を行う。

1962(昭和37年)
室井氏タヒチ再訪、前年施術した貝の試験剥きの結果100数個の黒蝶真珠が採取されたことを知る。これがタヒチで最初の養殖黒蝶真珠の成功である。
同年同氏はボラボラ島、ヒクエル島(主として同島)で約5000貝の施術をし1994(昭和39年)1000個の黒蝶真珠を採取した。

1965(昭和40年)
日宝真珠(株)企業進出のためポリネシア政府と交渉したが同政府と交渉がまとまらず進出断念。

1966(昭和41年)
ローゼンタール兄弟マニヒ島にSPEM社(Manihi Pearl Experimentation Company)設立。

1970(昭和45年)
和田連ニ氏SPE社と共同研究と技術指導契約を結びフレンチポリネシアに渡る。

1971(昭和46年)
旭光産業(株)とポリネシア政府との契約で同社横溝節夫氏が技術指導のためポリネシアに渡る。1975年旭光産業(株)引き揚げとともに同氏帰国。

1973(昭和48年)
ジーンクルデイ・ブローレット氏南マルテア島に黒蝶真珠養殖場開設

1974(昭和49年)
ロバート・ワン氏ガンビエに黒蝶真珠養殖場開設。

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